ボイス

【ボイス:2024年11月1日】福田翔生選手

新たな未来を切り開いた
フォワードへのコンバート
 サッカー選手としてのキャリアをスタートしたのは、2019年。高校卒業後、当時JFLに加盟していたFC今治に加入した。Jリーグのクラブを希望していたのは当然だが、現実としてオファーはなかった。そのなかで日本代表監督の経験もある岡田武史さんが代表取締役会長を務めるクラブというその存在のおもしろさに惹かれたことが決め手となった。

「ここから這い上がって行こうと思ったし、実際にそういう気持ちでやりました」

 FC今治は、翌年にはJリーグへの入会が承認され、福田選手はJ3リーグを戦った。この頃のポジションは、サイドのアタッカー。武器は小学生の頃から大好きだったドリブル。自分が得点するというよりは、得点を取らせるプレーを得意とした。

「小学校の頃からサイドにずっと張ってドリブルばっかりやっていたタイプ。2020シーズンは、当時のリュイス(・プラナグマ・ラモス)監督がすごく成長させてくれたのもあって試合にも出られました。でも、そのあとはあまり試合に出られず、最後のシーズンは覚悟を持って自分から10番をつけたいと言ってつけましたけど、なかなかチャンスがなかったです」

 試合に出られなかった当時の苦しさを振り返りながら、「結果にこだわる気持ちが足りなかったのかな?」「いや、そういうわけじゃないか、うん」。福田選手は、そんな自問自答を交えながらFC今治での経験を話した。4シーズンを過ごして契約は満了となったが、それでもFC今治でのプレーが認められ、対戦経験があった同じJ3リーグのY.S.C.C.横浜からのオファーを獲得する。この移籍が転機となった。YS横浜で当時監督を務めていた星川敬元監督がフォワードへのコンバートを勧めてくれた。

「サイドで勝負したい気持ちはあったけど、自分の中でも何かを変えなきゃいけないと思っていました。でも、とにかく試合に使ってくれれば絶対にやれる自信はあったので。そこからプレースタイルが180度変わりました。フォワードで起用してもらって点を決められるようになったのは、すごく大きかったですね」

 攻守ともに走ることを惜しまず、スピードも群を抜く。チームプレーを徹底しているから体を張ったプレーも多い。そんなプレースタイルは、YS横浜で培われた。

「使ってくれた星川さんには、本当に恩がありますし、そのなかでプレースタイルも変えられたので本当に感謝しています」

 プロ選手として初めての得点を決めたのも、YS横浜でフォワードとして起用されるようになってから。

「挫折の連続ですごく苦しかったときも自分だけは信じ続けてきたし、そのなかで試合に出られるならどこでもやるって覚悟を決めていたので、初ゴールを決めたときは、ちょっと報われた気がしたことは覚えています。今は、挫折が多かったからこそ今があるって思います」

 YS横浜でJ3リーグをシーズンの約半分、21試合に出場し、11得点を挙げた。この活躍が評価されるとともに、ベルマーレと練習試合を行った際のプレーも際立ち、オファーにつながっていく。

「練習試合でのプレーがすごく良かったというのと、実際の試合で得点も決めていたし、守備も攻撃もハードワークできるということは言われました。僕自身も自分のプレースタイルは、湘南に合うと思ったし、周りの人もそういってくれたので」

 福田選手の兄はG大阪でプレーする福田湧矢選手。キャリアをスタートしたときから、兄と同じJ1の舞台に立つことを最大の目標として努力してきた。ベルマーレからのオファーは、まさしくその夢を叶える出来事だった。

「うれしくて、めちゃくちゃ泣きました。YSが自分を拾ってくれてそこで変わることができたのと、そのチームから移籍するという申し訳なさと、これまで苦しんできた分、やっとJ1のチーム、湘南からオファーをいただけた喜びと。いろんな感情が全部混じって、号泣しました」

 攻守にハードワークが要求されるベルマーレのサッカーと福田選手のプレースタイルの相性の良さは、すでに試合で証明済み。

「湘南に来て、智さんにいろいろ教えてもらっていろんなことを覚えて、さらに磨きがかかっていると思います」

 移籍から1年が経った今、試合を重ねるごとに成長カーブは右肩上がり。この先の未来に向けて、ますますの活躍に期待がかかる。

ピッチは気持ちを表現するところ 1年で積み上げたものを出すだけ >