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【ボイス:12月31日】田村雄三選手の声

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リーグ戦を2節残した11月26日、ホーム最終戦の2日前にそのニュースは発表された。

 “田村雄三選手、今季限りで現役引退”。

ひと目では理解すらできなかった事実が、そのタイミングで発表されたのは、ホーム最終戦で本人がファン・サポーターに直接挨拶をするためだった。今回は、引退に至った道のりをたどりながら、その時その時に何を感じ、何を考えたのか、今ある思いとともに振り返ってもらった。

voice_101231_02最後までグラウンドに立っていたい。
その思いだけに支えられて。

「悔いはありますよ。悔いはあるし、寂しさもあるし、くやしさもある。悔いなく引退する人は、いないと思います」

 田村選手の言葉はいつも飾り気がなく、正直だ。心の中にある感情を、そのまま取り出して並べたような素直な思いが響く。

「引退を決めたって言うか、決め始めたのは7~8月頃。ちょっと痛いなっていうか。
 上半期も痛かったんですけど、上半期は注射は打ってないんですよ。痛み止めの座薬と、あとは試合に臨むアドレナリンで痛みはごまかせたんです。それが夏場くらいから座薬を入れても効かなくて、試合当日は注射を打つしかなくなった。それで週に1度、膝にヒアルロン酸を入れて、試合当日は局所麻酔を打つというのがローテーションになった。
 これが麻酔だから痛みを感じなくて、無理がきいちゃう。だから翌日とか、切れた瞬間にすごく痛くて眠れなくて。試合のたびに繰り返すから、メディカルスタッフにもドクターにも『打ちすぎだ』とは言われてました」

選手生活は6年間。ルーキーイヤーからリーグ戦に出場しているが、プロ選手として歩きはじめたばかりの1~2年目の頃に膝を痛めて手術をしている。それでも、怪我の重さが周囲に伝わるほど長い期間休んだ記憶はない。

「背番号3を付けていた頃ですね。半月板を両方やりました。左膝のリハビリが終わってちょっとボールを蹴れるようになって、みんなと一緒にミニゲームをやっていいよって言われたそのゲームで右膝を踏み込んだらパキッて音が鳴った。同じ手術を繰り返したので、今思うと、チームは良く残してくれたなと思いますけどね。
 この頃は膝がずっと腫れっぱなし。週に1回水を抜いていました。
 それも3年目に落ち着き始めて、その後もずっと気は遣ってきましたけど3~5年目は膝も落ち着いていた感じですね」

 怪我に煩わされることなく過ごして迎えた5年目のシーズンに昇格。まだ、わずかに1年前のことだ。その記憶が鮮やかであるからこそ、今シーズンの引退はあまりにも衝撃的だった。

「開幕までにキャンプとかでちょっと怪我をして、J1の舞台を良い形で迎えることができなかった。そのままシーズンに入って、具合が悪いままずーっとやっていたので、それでわがままを言って中断期間に手術をさせてもらった。手術は別に難しいことはなくて本当にクリーニングが目的だったし、それまであった痛みも手術をすれば治ると思っていたんですけど、開けたら思ったよりも良くなかった。予想よりもあるべきものがないな、とか、思ったよりもはげちゃってるなとか。でもクリーニングはして良かった。直後は、痛みも少し引いたから」

 そうはいっても、痛みから解放されていたのはわずかに1~2試合。まわりの誰もが痛みに強い選手と認め,それを自負する田村選手でもこの痛みをこらえることはできなかった。

「だから、試合前の注射のローテーションを繰り返すうちに自分の中で腹をくくっていった。怪我が痛くて自分をセーブしてしまうのは、ちょっと違うなと思ったから。今年がラスト、毎試合毎試合がラストダンスだと思って、その1試合1試合をやるために最善を尽くす。後のことは考えてないからわがままをきいて注射を打ってくれ、という気持ちでした。
 これに追い討ちをかけるように10月に手の甲を骨折したんですよね。その時はさすがに、『神様、ここまで試練を与えるか!気持ち良いな!』と思いました(笑)。甲の骨折だとグーの形で固定しなきゃならないし、でもそれじゃあサッカーはできないと思ったから、手術せずに固定もしなかった。骨は、そのまんま固まったみたいです。ギブスするとやりづらいんですよ、片方だけ重いし。だからギブスもしないで、手の甲にも麻酔を打ってもらって」

 満身創痍の身体と心で考えたのは、どうしたら自分の力を一番発揮できるか。自分の力をチームの力にできるのか。ただそれだけ。

「最後までグラウンドに立っていたいなっていう思いが強かったから。そういう意味で自分の中で決めてからは、やりきってきましたけど」

 田村選手の膝は、故障とダメージが重なって現在すでに筋肉をつけて機能をカバーしている状態だ。自称“膝年齢70歳”。引退したとは言え、これからもトレーニングを続けて筋肉を維持しなければ立って歩くことさえ、できなくなってしまう。

「人生の課題として受けとめています。これがサッカーをやってきた証でもあるし」

 悔しさばかりが募る11年ぶりのJ1の舞台だったが、必ず復帰をするという誓いには、チームを支えた田村選手のこの強い思いもいっしょに刻もう。

voice_101231_07練習から100%が当たり前。
チームに迷惑はかけられない。

 試合の前に痛み止めの注射を打つことが必須のルーティンになったことももちろんそうだが、それよりも田村選手を強烈に悩ませたのは、練習に自分の100%の状態で臨めなかったことだ。

「9月に試合を休んだ時は、俺もっとやれたかなという思いはあっても痛みが上回ってしまった。今の自分ができる100%だけれど、今までを考えれば自分の100%ではなくなってしまった。インサイドを蹴るのも痛かったです。『ああ、もうこれもできないのか』と思った。これは自分の信条に反しているし、これ以上やったらチームに迷惑かなと。
 この頃は、練習から痛み止めの座薬を入れていて、試合なんて考えなかった。練習の2時間の痛みを耐えるのに全てを尽くして体力を使って、1日1日をしのぐのにいっぱいいっぱいになってしまった。今思うと、この頃が一番精神的にきつかったかもしれない。もうチームに迷惑をかけられない、練習をやっているのも迷惑だと思った。だから、自分から言って練習を休みました」

 常に100%全力で。田村選手にとって譲れないプロの条件だ。

「俺も痛い時にもっと休んでいたら寿命は長かったかもしれないです。『痛いから休ませてくれ』っていうのもプロだと思う。要は自分の身体が商品だから。
 でもね、俺はもったいないと思うんですよ、どうしてもできない怪我の時はしょうがないと思うけど、捻挫とかね。ちょっとした怪我で休むっていうのは、俺にとっては違う感じ。
 トノさん(外池大亮氏/2006~7年在籍)が選手会長をやっていた時に、『お前、契約している間、毎日毎朝風邪もひかずに練習に来て、先頭を走る気あるのか』と言われたんです。トノさんが練習を休んだのは見たことがなかったし、練習に毎日来れるっていうのは、自己管理をしっかりしているっていうこと。先頭を走るのもそう、体力も必要だけど、それ以上にそれなりのメンタルが必要。プロはそういうものだし、そういう姿勢は100%で取り組まなければできないと教えてもらった。
 だから、自分がチームを引っぱるとか、俺についてこいとか、そんなことは思ったことがないけど、プロとして100%やるのが当たり前なんです」

 自分に厳しい先輩ばかりを選ぶようにしてあとを追いかけ、プロとしての在り方や人間性など、さまざまなものを吸収してきた田村選手。そういった先輩たちとともに先頭を切ってチームのために尽くしてきた。また、反町監督も、試合出場のメンバーを選ぶ条件は“練習でのパフォーマンスがすべて”というほど、練習を大切にしている。その空気に反する行動を選手会長である自分自身がするわけにはいかない。

「昔のベルマーレは正直、『プロってこの程度のものなんだ』って思う選手もいた。でも、菅野さん(前監督)が来たあたりから、ベルマーレというクラブ全体も変わろうとしていたし、チームもチーム全体が練習を一生懸命やって当たり前って言う空気になった。俊さん(斉藤俊秀選手・藤枝MYFC監督兼任/2007~8年シーズン在籍)とかトノさんとかジャーンとかが、『プロはこうだよ』って言うのを教えてくれた」

 田村選手がいつも最優先にしていたのはチームのこと。そして、チームのために何ができるかを考えて行動することによって、何よりも自分自身が成長してきた。そんな田村選手だが、引退を発表したあとはさすがに自分に意識が向いたようで、正直に言えばどんな取材も受ける気はなかったという。事実、リーグ戦が終わるまで、すべての取材をシャットアウトしていた。しかしその後は、地元メディアを中心に、さまざまな取材を受けた。思い直した理由はひとつ。

「俺の話で若い選手が何かを感じてくれるかもしれないから。何か残せることもあるのかな、と。それも仕事っていうか。
 ホントは、『もういいじゃないか』って思ったんですけどね」

 自分も先輩たちを追いかけて学んできた。だからこそ、自分が学んできたことを伝えたかった。その思いは、しっかりと後輩たちに受け継がれていくことだろう。

voice_101231_03大切にするから大切にされる。
そこにあるのは、感謝。
 

厳しく寂しい引退の決意を支えたのは、やはり一番身近で見守ってきた家族。特に妻の支えは大きかった。インタビューの中でもたびたび感謝の言葉が語られた。

「家では、奥さんと家族会議を何回かした。奥さんは、俺に任せるって言っていたけど、元看護師なので注射のことも、どういう状況かも分かる。一番身近で一番きつかったと思います。
 選択としては、家庭もあるし、少しチームにわがまま言って半年思いっきり休むことはできたかもしれない。でも、半年休むなんて、そんなに迷惑って言うか、甘えられない。それに保証もない。半年経っていざやってできなかったら…。
 奥さんとも、今年十分迷惑をかけたから、これ以上誰にも迷惑をかけないうちに辞めるくらいがいいのかなと話していたし」

 また、背番号2を引き継いだ斉藤選手へは、発表されるまであえて連絡を取らなかったという。斉藤選手の性格と思いやりあふれる友情はよく理解していた。

「俊さんにも相談しないで決めたので、リリースを出した時に電話をした。そうしたら『何だよ、何でもっと早く相談してくれないんだよ。俺もそうだったけど、思いっきり休めばできるよ、たぶん』って。相談したら絶対止められるのが分かっていたから」

voice_101231_06 まわりにいる人を大切にするから、それ以上に大切にされている。これからの人生については、

「男3人兄弟で、兄弟不思議と仲が良いので、正月とかに3人で顔を会わせた時には、何不自由なく育ててもらった両親に恩返しするには親父の会社を3人で頑張ってデカクすることかな、なんて話していたんですけど」

 田村選手の父は、精肉の卸会社を経営しており、長男はすでにその会社で修行中。次男は、この会社から肉を卸して焼肉店を経営している。

「長男次男は、その約束を全うしているんですけど、僕は大学卒業する時にプロの道が開けて、『サッカー、やりたいんだけど』ってその約束を崩した(笑)。それが絶対ではなかったけど、3人とも小さい頃からサッカーをやっていて、ひとりくらいサッカーの道に進むのも恩返しじゃないかっていって、兄ふたりをうまく丸め込めたんですよ。だから帰るのもひとつの選択だと、正直あります。かといって、俺、三男だしな、帰ってもやることないかなとか」

 6年間の選手生活にピリオドは打ったが、サッカーに携わる仕事を選ぶという選択もある。

「僕の中だけで引退を決めていた夏頃、紘司さん(坂本)とふたりで飯を食った時に、偶然『引退したらどうするか?』って言う話になったんですよ。引退のことを全然言ってない時にですよ。その時に、ここまでしてもらったからどんな形でもベルマーレには恩返しをしないといけないなって、決めたっていうか。そういうのはありました」

voice_101231_05 インタビューを行なった時点では、いろいろ考えているところということだったが、12月30日に強化部スタッフとしてフロント入りが発表された。誰もが一番望んだ形が実現したというところだろう。第二の人生のスタートを控えて思うのは、

「毎週毎週自分の身体とプレッシャーと向き合って、対戦相手のことを考えたり、しっかり戦わなくちゃいけないとか、練習から100%やるんだとか、当たり前だけど今週もまた試合に出るためには、練習からしっかりやらなくちゃとか、そういう張りつめた緊張感から解放されるのかな?ということ。もちろん仕事をしていれば、誰でもプレッシャーはあると思うけど、サッカー選手としてのプレッシャーはもう味わえないんだなと」

 さまざまなプレッシャーとの戦いに明け暮れた現役生活。日々を最高のコンディションで迎え、過ごす戦い、毎日の練習でチームメイトと切磋琢磨し、その中でレギュラーポジションをつかむという戦い、メンバーに選ばれれば試合に向けてメンタルを整え、フィジカルを整え、そしてリーグ戦で戦う。その戦いの日々を支えてきたのは、

「6年間できたのは、皆さんの存在があったからできたと思う。
 6年間で自分も年を重ねて、皆さんが競技場に来てくれることで僕たちの給料があるとか、そういうことがしっくりくるようになった。そういう日頃応援してくれる人に感謝を込めてしっかりやっているのを見せるのがプロだから、それは僕の中で勝手に思い描いたプロ像だけど、そういう姿を見せるために僕は6年間走り続けてきたつもりです。それができたのは、皆さんの声援とか応援があったのが本当に一番のエネルギーだったし、モチベーションだった。
 サポーターが年ごとに増えていって、それはうれしいことだったし、自分たちがやってきたことは間違いじゃなかったという目に見える結果だったと思う。
 でも、これからは同じ立場ですからね。同じ、一サポーターとして、ベルマーレを盛り上げていけたらなと思います」

 ただただ感謝を。そして、これからもいっしょに。立場がどう変わろうと田村選手の存在が、ベルマーレにとって心強いものであることに変わりはない。

取材・文 小西なおみ
協力 森朝美、藤井聡行