湘南ベルマーレ20周年記念コラム「志緑天に通ず」
湘南ベルマーレ20周年記念コラム「志緑天に通ず」第10回
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EPISODE-Ⅹ MITO
2009 ADVANCE
カタカタ鳴り続けたファクス音との約束を果たすには10年を要した。
長く険しかったJ1への到達は多くの人々の想いの結晶だ。
シューズを脱いだ坂本紘司の足は深紫にそまり、田村雄三の膝はボロボロだった。
新型インフルエンザに感染し最終戦のピッチに立てなかった中村祐也の無念を全員が背負って闘った。
あの冬晴れの日がなければ、その先の湘南はさらに混沌としていたかもしれない。
「あきらめない」というありきたりに使われる言葉の本質をクラブが理解した日でもあった。
※以下は、「社長のPHOTO日記 特別編-1205 希望の戦地より」として2010年1月2日に本公式サイトに掲載されたものです。(TEXT:眞壁潔)
どうしても行くと言う。小学1年と幼稚園の子どもを連れ電車で。スーパーひたちの時刻を調べている。
「ご自由に」と答えながら心の中で「まいったな」とつぶやいた。妻はベルマーレと相性が悪い。本人も気にしていて10年間、あまり試合には来なかった。アウェイに来たこともない。当然甲府にも行かなかった。
クラブスタッフにも最低限必要な人以外行くなと釘を刺している。昇格できるかできないか分からない試合に行くより、アウェイ水戸に行けずにホームタウンで気をもんでいる支援者の対応やパブリックビューイングの会場でしっかり仕事をしなければいけない。万が一悲しい結果になったとき頭を下げ来季の応援をお願いしなければいけない。応援が第一優先であればクラブで働いてはいけない。給料は応援して下さるサポーターやスポンサーからいただいているのだから。
そう指示している社長の家族は行くのかという葛藤がありつつも、想像したくない結果になってしまったとき、一人で常磐道の渋滞を運転して帰ることができないかもしれないという不安にもかられていた。「へとへと」になりつつあるサッカー界生活で唯一現実から逃げることのできる瞬間は「家族」だけになっていた。
ふと時計を見るともう0時を回っている。明日は6時には家をでるつもりでいた。実行委員(社長)は通常2時間前には会場入りする必要がある。12時30分のキックオフを考え、首都高速や50号線の渋滞を想定するともう少し早くても良いかもしれない。10年の経験からするとアウェイの会場にぎりぎりで入った時はだいたいろくな結果じゃない。敗戦し甲府のやる気を倍増させてしまった熊本戦は行きの飛行機に乗り遅れる寸前だった。しかも試合前に必ずお参りする土屋の妙円寺に寄る必要がある。社長になってから試合の日に一度も欠かしたことのない重要な儀式だ。住職には電話をして祠の鍵を朝一番で開けてもらっている。目覚まし時計の針をさらに早めに回しベッドに転がった。
東名も首都高速も思いのほかスムーズに通過し、常磐道の友部サービスエリアで蕎麦をすすりケーズデンキスタジアムを目指す。10時前にスタジアムに到着すると水戸の沼田社長が玄関から挨拶に飛び出して来た。「仙台にね、やられてっから。そう簡単には困るんだよね。ホーム最終だよ。なんで草津で決めてくんないの」「決めたかったよ。当たり前じゃん」と出かけたが「悪いな。最終戦で。最後挨拶するだろ。やりにくいね、お互い」と返した。沼田社長は自分に似ていて自ら水戸で会社を経営しつつホーリーホックの社長を務めている。歳が近いこともあり彼が昨年社長に就いた後からお互い親会社のないクラブとして会話を弾ませてきた。プロ球団の経営は理屈でなく経験が生きることが多い。そんなことを察してか何かと新人社長として分からないことがあると遠慮なく私の携帯を鳴らしてくれた。そして、水戸にはクラブが大変お世話になったJリーグより出向している盟友がいる。水戸の黄門さまと呼ばれている(らしい)藤村さんだ。Jリーグ在籍時はスポーツ振興やホームタウンの担当マネージャーとしてベルマーレのすすめる総合型スポーツクラブの事業に多大なる理解を示してもらった。ビーチバレーの白鳥や楠原が北京オリンピックにたどり着けたのは彼の長年にわたる理解があったからに違いない。
そもそもサッカーの神様は意地悪だ。最後に個人的に対戦したくない3チームをそろえてきた。最終戦まで昇格を争っている甲府も私にとって非常に距離感の近いチームだ。ベルマーレの存続危機が99年、次が甲府だった。昇格は先を越されてしまったが、海野社長と私は試合後に会場の後片付けをスタッフと一緒に行う数少ない社長だった。Jリーグの会議は北から順番に座るため常に左隣り。元新聞記者らしく好奇心旺盛で隣の席とはずいぶんと質問や疑問の投げっこをしてきた。フットワーク軽く甲府盆地を駆け回りクラブをあそこまで大きくされてきた。尊敬すべき社長の一人だ。
最後の3戦を戦ったもう一つは草津。ご存知のように植木GMはベルマーレ黄金時代の監督。ここもまたしっかりした親会社もなく経営には苦労の連続だ。ヤスやクマ、そして本田などベルマーレDNAの選手たちが多く在籍している。そんな縁もありユニフォームサプライヤーのA-LINEはベルマーレが紹介した。 夏場の前橋での敗戦後、植木GMが声をかけてきた。「何年経ったかな」「10年ですよ。今年で。」「10年か。上がらないとね。もうね。今年10年ね。」彼も99年、親会社撤退により傷ついた一人だ。ベルマーレに対しては「無念」の思い出が残っている。当時の多くの選手やスタッフの歴史の針は止まったままだ。歴史の針を再度動かし湘南ベルマーレの基盤を強くさせるためにもJ1復帰は必ず果たさなければならないと思った。
スタジアムに着くと多くのサポーターが次々にバスから降りてくるのを目撃。ゲートオープンにあわせゴール裏ゲートへ足を運ぶとサポーターの長蛇の列。ゲートには3人しかスタッフがおらずゲートでサポーターに挨拶しながら「切った半券は手に持ちながらじゃ時間かかるでしょ」など笑顔でスタッフに語りかけ暗に「急げ」とプレッシャーをかける。しばらくすると選手の乗るバスが着いたというのでバスゲートに向う。ロッカールームの入り口で大サポーター群の出迎えを受けた選手たちに声をかける。村松をはじめとする若手の顔がかなり硬いような気がするが続いてやって来た寺川がいつも通りニヤニヤしているのを見て少し安堵した。
70分前になるとマッチコミッサリーによるミーティングが両チーム実行委員、監督そして審判団の出席で行われる。今日の主審は廣瀬さん。昨シーズン昇格争い最後の天王山アウェイの山形戦。昇格争いをする両チームは一進一退の好ゲームを展開した。引き分けかと思ったロスタイム、山形の放ったシュートはバーに当たりGKの頭に当たりゴール内に転がった。主審は廣瀬さんだった。悪い記憶はなぜか突然やってきた。良い記憶に変わることを願ってミーティングに臨んだ。ミーティングではコメントを求められたので勝っても負けてもベルマーレサポーターには10年の想いがあり少々混乱が起きるかもしれないので、自らがスムーズに水戸の最終戦セレモニーに影響がないようにコントロールする旨の話をした。なにせ最小限、3人のスタッフしか来ていない。
ミーティング後、緑のだるまとお札を届けに運営の遠藤とゴール裏サポーターのところへ向う。シーズン中ホームゲームでは常に本部の机の上にピッチに向い奉られていた。お札は当然土屋の妙円寺のお札だ。甲府戦に初めて出張した「必勝セット」はご存知のように劇的な勝利をもたらした。アウェイに来て相手の本部に置いておく訳にもいかず遠藤と相談してゴール裏のサポに預けたのだ。そうなるとこの水戸戦も同じようにするのが神様に対する礼儀と言うものだ。クラブには片目のだるまがゴロゴロしている。10個目のだるまの責任も大変なものだ。多くの片目の想いを背負ってゴール裏に座することとなった。
ピッチでアップを終えた選手が徐々にロッカーに戻っていく。彼らはユニフォームに着替え最後のチェックを終わらせ円陣を組んで声を掛け合った後、闘いの場へ向う。いつもと同じようにロッカー前で選手のロッカーアウトを待つ。出て来た選手は落ち着いているように見えた。握手をし「いつも通りな」とお決まりの一言をかけ選手を最後の90分へ送り出した。
送り出すと階段を上りスタンドへ向う。もうほとんどの人が席に移動しガラガラになったコンコースで誰かに呼び止められた。ふと振り向くと少し小柄な青年が立っていた。小長谷前社長の息子さんだった。「昇格しますよね。絶対しますよね。」確信めいた問いかけに大きくうなずくと微笑みながらスタンドへ向っていった。10年前小学校4年生だった彼が今は大学生だ。当時日本一のジュビロ磐田を見ながら育った彼は、突然知り合いの誰もいない平塚に引っ越すことになった。「ジュビロしか応援しないよ」そうガキが言っているんだよ。ベルマーレのために一肌脱ぐ決心をした小長谷さんの唯一の心配だった。しかし華麗なパスまわしを見慣れた少年はミスの続くパスまわしに困惑しながらもすぐに親父のチームを熱心に応援するようになってくれた。あの日があって今日がある。改めてそう思う。
スタンドには通常アウェイ役員用の席が用意されている。しかしなるべく座らないようにしている。役員用の席の近くは必ず相手側のスポンサーなど重要関係者が座っている可能性が高い。うっかり「よっしゃ」でも連発すれば微妙な雰囲気が加速されていく。いつもはふらふらしながら止まり木を探すのが通例だ。しかも今日は産業能率大学の上野理事長や平塚の大藏市長などお世話になっている方々が応援に駆けつけてくださっている。当然ですが上座には座れません。
長年のデータでゲーム中の居場所も決めてある。ホームゲーム前半はグラウンドレベルでHIDEゲートサポーターのちょうど反対側。ペナルティーエリアのラインの延長線のあたり。ここで観戦中の禁止事項は河野太郎氏と立ち話しないこと。かなりの確率でやられている。おそらく彼も気にしている。か、全く知らないか。後半は挨拶をしながらメインスタンドに上がる。ピッチに向って右側の記者席は業界関係者も多く一度は挨拶がてら顔を出す。一番上の通路に立って見るのが通例だが長居はいけない。水谷(社長室 室長)と話すのもいけない。やられる。早々にピッチに向って左側の最上段の通路に向った方が良い。必ず総務の相原が一人で立っている。彼から約3メートル離れたその場所で数々の89分ゴールを目撃した。
そして今日の観戦場所はだるま同様、甲府戦にあやかり甲府の試合を観戦したのと同じピッチに向い右側の最上段の通路で立ち見と決めた。最終決戦は主審の笛により時間通りにボールが蹴られた。少し気になるのは監督が嫌がる風が強く吹き出したこと。最上段の通路には寒風が吹き付けてきた。しかしほぼアウェイスタジアムをホームスタジアムに変えてしまったベルマーレサポーターの熱狂に不思議と寒さは感じなかった。水戸の2トップ、荒田と高崎はやはり良い動きをしている。風もありセットプレーは気をつけないと、と思った瞬間、やられた。これはいけない、自らのポジションも変えるかと思った瞬間またやられた。「10回のロスタイム弾」はこの日のための悪い演出かと落ち込んだ。3,500人ものサポーターに何と謝ろう。しかも試合後は水戸のセレモニーがあり敗戦チームの謝罪などスタジアムでやっている場合ではない。ふとスタジアムの後ろを見るとサポーターが乗ってきた大型バスの止まっている駐車場に目が止まった。広い。ここなら可能だ。ここで謝ろう。ふと家族の顔が浮かんだ。
ホームページの担当者には結果が出次第アップできるようにと昇格バージョンとJ2バージョンの2つの文章を昨夜預けてきた。J2バージョンの書き出しは「不屈の魂で」という書き出しで始まる。不屈なんて言葉を簡単に使ってしまった自らを責めた。目の前の風景は自分を含め完全に屈折してしまっている。しかしそんな中で屈折していない集団が視界に入った。怒鳴り合うことなくお互い声を掛け合っている。俺たちはまだここからできるんだと自信の目線で合図をし合っている。下を向いている者は誰もいない。彼らには苦闘のシーズンを戦って「不屈の魂」が確実に芽生えていた。
数分後「魂達」が雄叫びをあげる。ゴールからボールを拾い上げた田原がセンターサークルを目指す。J2で再起をかけた彼は今日負ける訳にはいかない。サッカー人生をかけてベルマーレにやってきたのだから。2月末、すでに強化予算を使い果してしまった大倉(強化部長)が言いにくそうに口を開く。「田原と言う選手なんですが、ご存知ですか」「知っている」「明日から練習参加だけさせたいんですが」「練習だけだな?良くても採らないんだな」「良かったら…ですね……」。開幕の6日前、本人と話した。「オファーはいくらでもくる。自分を勘違いしていたんです」目には再起をかけたい、サッカーをやりたいという想いが宿っており、田原の入団が決定した。
良し!前半で1点差にしておけば可能性は高くなる。そんなことを考えていたら阿部のヘディングが決まった。これはいける。「魂達」はもう止まらない。
中村が体調を崩さなければ阿部の先発はなかったかもしれない。何と言ってもトップスコアラーだ。シュート決定率0.26は10点以上の得点者の中ではダントツだ。大倉には水戸まで中村を連れて行って試合当日の朝に判断したらどうだと進言した。すると大倉は反町監督はすでに前日選手達に伝えたという。中村には可哀想だが今週も必死に最後の1戦のために日々の練習を重ねてきた。体調を崩した者より1週間頑張った者を使う。それが監督の決断だった。全くブレない監督に改めて感心した。マネージャーから中村の携帯を聞きすぐに電話をした。中村は浦和サポーターなら誰でも知っている、下部組織からプロ契約した生え抜きの選手だ。昨年、契約更新を検討した会議ではそれほどの出場実績でもなかったのに更新が早々と決まった。理由は去就の決まっていなかった菅野監督、大倉ともに非常によく練習するという評価だった。「いつか必ず花咲きますよ」と菅野に言われた。い・つ・か、ではなかった。彼の能力を見抜いた反町の功績もあるが、何よりあきらめずにやり続けた祐也を褒めてやりたい。それだけに最終戦のピッチに立てない彼を思うと声をかけずにはいられなかった。電話では正確に何を話したか覚えていない。お前がいなければここまで来れなかったということ。人生にはいろいろなことが起こるということ。そんな話をした気がする。中村は感謝の言葉を何度も繰り返していた。J1に行って浦和のピッチに立たせてやりたい、そう思った。
「魂達」は後半8分に完全に彼らの目標を現実に近づける仕事を完了させた。
私とベルマーレ同期入社の坂本はいつも通り少々ボールを足下で暴れさせるが、いつもの事よとばかりに冷静にクロスをあげる。大外で待っていた阿部も練習で培ったいつもの坂本クロスをイメージし冷静にビッグヘッドでボールをゴールに押し込んだ。夢をぐっと手前に引き寄せるゴールだった。しかしサッカーの神様はいろんな仕掛けを考える。同点と決勝ゴールを決めた阿部は今年の1月にめでたく結婚した。結婚式で主賓挨拶をしたのが私。2番目に新郎の恩師として挨拶したのが水戸のGM萩原さんだった。彼の少年期の指導者で正に阿部吉朗の原点をつくった人だ。こんなゲーム展開の時、指導者はどう思うのだろう。勝負の世界はやはり厳しいと感じた。
ベルマーレを応援する誰もがそうであったに違いない。残り40分がとてつもなく長く感じられた。寺川が幸平が声をあげピッチを走り回る。アジエルの痛み止めは効いているのだろうか。ベテランのジャーンが新人の村松と冷静に水戸のFW陣を抑えていく。シーズン当初、決戦の最終戦で島村が先発すると誰が予想できただろう。ヒヤッとするゴール前のボールは何事も無かったように野澤が処理をする。交代のカードでピッチに立った永田と猪狩はC大阪戦と札幌戦のヒーローだ。短い時間で結果を出した二人の活躍が無ければ今日の勝利の価値もない。ロスタイム4分。ふと気づくと風は弱くなり青空が広がっていた。その青空に相手キーパーの蹴ったボールが弧を描きピッチに落下してくる。そして10年の時を経てその笛は鳴った。
小走りにスタジアムの階段を下り、コーチボックス目指しグラウンドに飛び出した。コーチたちはすでに選手達のいるピッチに駆け寄っている。ベンチに一人座っている監督に向かい一直線に進む。劇的な試合を制し、小説のようなシーズン僅差のJ1昇格を決め、さすがに反町も感情が高揚しているに違いない。ところが私を見つけるとニヤッと笑い「すごいね。こんな試合で2点ビハインドひっくり返すなんて、何か持っているでしょう。社長」と冷やかされた。「こんな時ぐらい少しはブレようよ」とも思いつつ、がっちりと握手をした。
そんなやり取りで妙に冷静になりサポーターとの約束を思い出した。ゴール裏にダッシュで駆け寄る。秋を迎える頃、サポーターからは昇格が決まったらやっぱりピッチに飛び込むのはいけないことかと問われた。当然だめですと答えた後「俺でよければスタンドに逆に飛び込むよ。だからピッチはだめだよ」と約束していた。手すりを乗り越え、リーダー大久保祐三の横に立ちサポーターと喜びを分かち合った。号泣するサポーターを見て時の長さを感じた。
約束を終えると今度はチームのスタンドへの挨拶を誘導するため選手のもとに駆け寄った。なにせ多くのスタッフは平塚に置いてきた。自ら先頭に立って対応することは想定内だったが思いのほか大変だ。ホーム水戸はこの後セレモニーを控えている。できるだけ速やかにグラウンドでの小祝宴を済ませなければいけない。3度もホームで相手の昇格を見届けてきたクラブのせめてもの配慮だ。「野澤、もっとあっち行って」などと冷静に選手を列に誘導していた。あと誰がいないだろうと振り向くと涙で顔をくしゃくしゃにした坂本が立っていた。それまでの冷静さは失われ涙が一気にでてきた。握手をし抱き合い、また振り返ると今度は田村が泣きながら近づいてきた。
ロスタイムの失点で敗戦した昨年の山形戦。終了のホイッスルを聞いた瞬間、雄三はピッチに倒れ込み泣きじゃくった。そのホイッスルはJ1昇格の可能性を限りなく小さくしたホイッスルだった。ジャーンに支えられピッチを後にする姿は痛々しかった。あの日の涙があって今日の涙が生まれている。
スタッフにA-LINEの記念Tシャツを着るよう促され慌ててコートの上から着た。マシュマロマンのようだなと思いつつ、勝利のダンスを見届け早めにロッカーに戻るよう選手に指示を続けた。すると思い出したかのように反町の胴上げが始まった。出遅れた選手に早く参加するよう呼びかけていると「不屈の魂達」が今度は自分めがけて突進してきた。何度だろう、大きく宙を舞った。胴上げの輪が次のターゲットに向い、視界が良くなるとスタジアムの端っこにたたずむ水谷を見つけた。歓喜の輪に加わろうともせず安堵の表情で関係者の対応を続けている。小走りに近づき、着ていたTシャツを脱ぎ感謝の言葉をかわしマシュマロマンを引き継いでもらった。彼がいなければ6年前からのチーム改革は進まなかった。昇格の陰のMVPだ。
スタジアム内のウォームアップエリアでメディアをシャットアウトして選手スタッフが円陣をつくり監督、社長、そして大倉強化部長が長いシーズンの労をねぎらう言葉をかけた。泣きながら話す大倉をみてある意味一番長くハードワークをしてきたんだなと6年の記憶を思い起こした。決められた強化費の中で最大の効果を出そうとすれば、ドライに物事を進めることが前提になる。生え抜きの選手を戦力外にすればサポーターからの批判も大きい。しかし描いた強化策を実現させるためには幾度となく厳しい判断をしてきた。「ボンクラ、オオクラ」と陰口を叩きながら出ていった人間もいた。全てがこの日のための苦労の歳月だった。
選手達には平常心で試合に臨ませるため知らせてなかったが、昇格を決めた場合、チームは急ぎで平塚を目指すことになっていた。なぜなら競輪場での緊急昇格報告会が行われることになっているからだ。残してきたスタッフはそのため喜びをかみしめる間もなく準備に奔走している。そしてその途中に都内でスカパーの生番組に出演するというハードル付きだ。遅くても8時半までに平塚に到着できないと条例の関係で開催ができなくなる。すでに50号線は大渋滞なのでバスの運転手さんと相談し渋滞情報の出るナビ搭載の私の車でバスを誘導しながら平塚を目指すことにした。
家族はその先導車の任務を負った車で待っていた。ここにも長く苦労をかけている人がいた。「ちょっと手伝うことになった」から始まり「土曜も日曜も休めない」まで到達した。家族で出かけるときも着替えのスーツを持っていくことが多かった。旅行で初めて飛行機に乗った時、隣に座った4歳の息子が聞いてきた。「パパまたお仕事いく?」「いや行かないよ。今日からはお休みだ。遠くに行くんだよ」そう答えても納得がいってないようだ。しばらくしてまた聞いてきた「パパお仕事のお着替え持ってきた?」愕然とし「いや持ってないよ」と返すと満面の笑みを浮かべた。サポーターの拍手に包まれ動き出した大型バスを先導して走り出すとその息子が話しかけてきた。「パパ、みんながマカベ、マカベ、マカベって何度も言っていたね。すごいね」「パパはみんなに応援してもらってベルマーレやってきたんだ」
そう、私が支えたのではなく支えられて今日の日を迎えることがでた。サポーターに、監督に、コーチングスタッフに、選手に、フロント職員に、スポンサーに、行政に感謝をしたい。そして決して忘れられない、存続のために援助くださったサッカー界のみなさまに改めて心より感謝を申し上げたい。
ベルマーレとベルマーレを取り巻く全ての人が10年の歳月をともに歩み、ともに悩み戦い続けた結果、多くの笑顔でさらに強く結ばれた。これから先もさらに急な坂道が続きます。共に歩み、共に戦い続けることを心より願ってやみません。そしてこれからも常に感謝とともに。
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※上記は「社長のPHOTO日記 特別編-1205 希望の戦地より」として2010年1月2日に本公式サイトに掲載されたものです。(TEXT:眞壁潔)
※このコラムは2004年に発行された湘南ベルマーレクラブ10年史に「インサイドストーリー:フジタ撤退から湘南ベルマーレ蘇生までの真相(眞壁潔著)」として掲載されたものです。(EPISODEⅤ以降はすべて、もしくは一部新たに書き下ろしされています)
尚、5月9日は2018年のルヴァンカップ優勝時に公式サイトに掲載されたストーリーを改めて掲載いたします。
※EPISODE-Ⅺはこちら