湘南ベルマーレ20周年記念コラム「志緑天に通ず」
湘南ベルマーレ20周年記念コラム「志緑天に通ず」第9回
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EPISODE-Ⅸ REQUIEM
2000 TAKE OVER
経営権譲渡の1月末まで、ベルマーレ平塚と湘南ベルマーレという2つの会社が大神でしばらくの間共存することになる。
ベルマーレ平塚の重松社長はじめ、出向から親会社に戻る幹部の方々はクラブハウスの小さな別棟の部屋に移動していた。社員数も減ったので同じフロアーでも業務を続けるのは可能で移動していただく必要はないと伝えたが、年寄りがいては皆さんが仕事をしにくいからと頑なだった。
前社長が近くにいては社員が気を遣うとの配慮だった。
ベルマーレ平塚からの引継ぎ業務は多岐に渡っていた。選手寮の廃止、チームバスの打ち切り。労務的な変更作業、電気、水道等の切り替えから、リース会社への事務機器等の変換や在庫品の確認、引き渡しなど挙げればきりがない。
そんなある日、事務所に一人残って業務をこなしていると重松社長が現れた。
「遠藤はおるか?出ているか、関は?」あいにく外出中だった。
「あんた、一人だけか」
ちょうど私も戻ったばかりで、他の社員はシーズンシートのお願いやスポンサー営業、税理士事務所との打ち合わせなどで出払っていた。
「ほー、一人か」と呟きながら私の机の反対側に腰を降ろした。
そしてゆっくりとグリーンの椅子に背をあずけた。
「あなた東京に住んでいる言ってたけど、平塚生まれじゃろ」
そんなこと言ったかなと思いつつ、平塚生まれから恵比寿在住までの37年の略歴を端折って話した。学歴まで聞いてくるのかなと構えていると一方的に話し出した。
「最初の10チームに入れんでな、知っていると思うけど。オーナーに説明しに行くのはそりゃー怖かったぞ」
話し出したのはベルマーレ平塚、そしてフジタの過去だった。当然だが作業の手をやめて聞き入った。
「この県はもう3チームもあるから平塚じゃ難しいじゃろうて話でな、北のほうの関東の街をあたったんじゃ」
「どこも断られてな~」
「あんた若いってすごいことよ、古前田も頑張ったがな、若い子が伸びて優勝よ」
「周りからは予想外の優勝だったからな、いろんな槍が飛んできてな…」
話は1時間近くに及んだ。フジタサッカー部誕生からベルマーレ平塚まで、そして窮地に立たされ、なぜ、どうやってここまで駒を進めてきたか。
時に笑顔で、時に険しくも穏やかに。背を預けたり、前かがみになったり。
ふと時計を見て「こんな時間か、仕事の邪魔だったの」すくっと立つと扉に向かって歩き出した。
慌てて見送ろうと立ち上がると後ろ向きに手を振って制された。
「サッカーのことは全くわかりませんが皆さんのご苦労が報われるように頑張ります」と取って付けたような言葉を発すると、扉に近づいた重松さんが振り返り満面の笑顔で1、2歩戻ってきた。
「あんたそれがいいのよ」
「サッカーを全く知らんのがいいのよ」
「知った人間がやってうまくいくなら、うまくいってるじゃろ」
「じゃ、がんばりんさい」
丸まりかけた背中を見送りながら、このクラブを存続させるために多くの汗が流されたことを深くかみしめた。
◆
以下は、2004年に発行の「湘南ベルマーレクラブ10年史」に掲載された重松良典さんのインタビューです。(TEXT:川端康生)
「命を懸けて拓いた存続への道」-重松良典
まるで大嵐の中の舵のない船の船長の如く、
消滅の危機にあったベルマーレの運命を操り続けた
クラブ存続を守った功労者の功績は計り知れない
重松良典さんは、一般的にはあの“赤ヘル旋風”当時のプロ野球「広島東洋カープ」球団代表として有名だが、実は日本代表にも名を連ねたことがあるサッカーマンでもある。選手を引退した後、東洋工業時代には日本リーグ設立に尽力し、1981年にフジタへ転じた後は、日本サッカー協会理事としてJリーグ設立にも関わるなど、長くサッカー界を陰から支えてきた人である。
湘南ベルマーレ平塚の社長に就任したのは1997年。そして、その翌年には親会社であるフジタの経営不振の影響で、消滅の危機に直面する。そんなまさに瀬戸際のピンチの中で、重松さんはクラブを存続させるため、フジタ、銀行、Jリーグ、地元自治体の狭間を奔走した。
その意味で、一連の経緯を誰よりもよく知る究極のインサイダーと言っても過言ではない。今回の取材では、その一部を明かしていただき、さらに今後のクラブ経営について助言をしていただいた。いずれも貴重なものだと思う。
-クラブ経営の試金石となった
フジタから「来季の支援はできない」という話を伝えられたのは、1998年の9月のことでした。
「来シーズンはお金はもう1円も出せませんよ」とね。
もちろんそれまでにも色々なことがあったんだけど、それは言えん。とにかく、ものすごく色々な検討を重ねてきたんだよ。
なぜなら、Jリーグを脱退するということは命を落とす以上に大変なことだから。普通の会社を潰すこととは訳が違う。Jクラブというのは社会性があるものなのでフジタの経営上の理由で「お金がなくなったから辞めます」というようなことはできんし、やってはいけないからね。
つまり、フジタが経営難でベルマーレの支援は続けられない。かと言って、ベルマーレを消滅させるわけにもいかない。では、どうやって残すか。そこのところで腐心しなければならなかった。
何と言ってもフジタは銀行の管理下に置かれていたからね。そりゃ銀行が采配したら、本当に1円の金だって自由に使うことはできない。まして本業じゃないところで1億も2億も赤字を出すわけにはいかない。
しかも、その年の初めに清水エスパルスが経営移行した際に、累積赤字を新会社につけるという前例があった。だからベルマーレの場合も、累積赤字をフジタがかぶる必要はないんじゃないか、という話になった。
当然だよ。あの当時、みなさんに出資してもらった2億4,000万円とフジタの出資分を合わせて8億円の資本金があったけれど、そんなものはすでに食いつぶしていて、それ以外に12億円の赤字もあったわけだから。
それでも私は2億4,000万円を何とかベルマーレに返そうとした。そうしないとベルマーレが続けていけないから。
もちろん、銀行は納得しませんよ。それはそうです。本体が潰れそうなのに、負債を肩代わりしてやろうという方がおかしい。理論上はどう考えてもこちらが不利だったわけです。
でも、チームも瀬戸際だからね。「NO」と言われたら腹を切るくらいの覚悟だった。唾を飛ばしながら何度も会議を重ねてね。
それでも私が言えることは「未来を考えてください」「見ていてください。ベルマーレを残したことがよかったといつか必ず……」ということだけだったからね。そりゃ苦しかったよ。
--そうした折衝の結果、それまでの損失金12億円とそのシーズン中の赤字をフジタが一括処理するという形で当時の「湘南ベルマーレ平塚」を清算し、2億]4,000万円を新会社である「湘南ベルマーレ」に残すことができたわけですね。
しかも1998年には横浜フリューゲルスのマリノスとの合併の動きも起きていました。もしも「ベルマーレも…」ということになったら雪崩的にJリーグが危なかったかもしれない。
ひっくり返っただろうね。だからJリーグとしてもベルマーレを潰すわけにはどうしてもいかなかった。その間の経緯は詳しくは言えないけど、とにかく何が何でもあと1年はこの状態で乗り切らなければならないということで、1998年11月27日に記者会見を開いて「10億円経営」「収入ありき」を発表した。
そしてフジタが撤退した後、新会社がやっていけるためのお膳立てをしなきゃならないから、いま話したような交渉をしてきたんだ。
それは考えられないような苦闘だったよ。別に私の功績だとは言わないけど、とにかく新会社には2億4,000万円が残った。これはフジタの善意だな。
これが決まったときには、Jリーグもかなり喜んだもんだよ。過去のクラブの例では、悪い財産も新会社に引き継がせることになっていたんだから。その意味で、あの時のベルマーレは親会社が撤退する際のモデルを示したんだ。
「10億円経営」についても、他のクラブから相当感謝されたね。同じように赤字を出せなくなったクラブがいくつもあったからね。
だから、「考えていたことをやってくれた」と、他のクラブに随分感謝されたんだ。
その意味でもベルマーレのケースは試金石だったと思う。収入ありきという前提でどれだけのチームを作れるか。あれは最下位になることも覚悟していたからできたことだった。
ただね、その一方で、私があれをやったことのマイナス面もないわけじゃないんだ。結果的にJリーグのマーケットバリューが落ちることになってしまった。
「身の丈経営」をする必要があることは間違いないけど、一方では「思い切ってやってやろう!」という勢いのあるクラブがなければ、発展が止まってしまう。J開幕当時のようなビッグネームがいなくなったことでわかるようにね。
いま日本人選手が海外にどんどん出て行けるようになったのも、創立当時のJリーグがあったからだと思う。そういう選手が出てくる環境があったからこそだ。
ベルマーレから第二の中田(英寿)が出ないのも、やっぱり環境がよくないから。これは悪口ではないんだけど、やっぱりいい選手がいたり、いいコーチがいたり、そんなモデルになる存在がいないと難しい。アントラーズやマリノスやジュビロにはやっぱりすごい選手やコーチがいるわけで。
もちろん、それくらいのチームにするためには20億円くらいはかかるだろうけど。
-地元のためという姿勢が大切
湘南ベルマーレ平塚の清算とともに私の仕事も終わった。とにかく2億4,000万円残したわけだから、4,000万ずつ毎年赤字を出しても6年はもつ。その間になんとか頑張ってくれと言って、新しい会社に引き継いだ。2年半、Jリーグのチームを作り、公益性を伝えてきて、生き甲斐もあったし、よかったと思っている。畑を耕して、種をまいたところで私の仕事は終了。あとはいまのベルマーレを切り盛りしている人たちの役割。
ここから先、本当の市民クラブになるまでにはまだまだ時間はかかるだろうけど、頑張ってほしい。
ベルマーレのこれからについては、7市3町にホームタウンが広がって、165万人の人口を抱えているわけだから、そのうち100万人くらい来てくれるようになればね。責任者としては左扇風機でやっていけるんだけど(笑)
とにかく、ホームタウンの人たちをどうやってベルマーレと結び付けていくかがポイントになる。私が思うには直接法でやらんことだと思うね。「困りましたから助けてくれ」よりも、「5年先、6年先を見てこうしようと思います、ついては…」と言う方がいい。
例えばおじいちゃんに「すまんけど、毎月1,000円出してくれ」と。「何のために」ときかれたら「最近子どもたちの体力が落ちています。だから子どもたちにサッカーをやらせたい。そのためにはお金がかかる」
かわいい孫がそれで元気になるんだったら、1,000円くらい出そうという人はたくさんいるんだよ。そういう人たちを1万人、1万5,000人と集めれば、クラブもやっていける。企業にしても「元気な町にするために50万円でいいからね」とね。
そう言えばJリーグを立ち上げる時に「毎年10億円くらいの支出を10年は覚悟してください」という話があった。私は選考委員をしてたから、「毎年10億円を10年出せるのはどんな企業か」と経団連に勉強に行ったんだ。そしたら「1%クラブ」というのがあった。メセナとかフィランソロピーのために収益の1%を寄付しましょう、という活動。
それで「これだ」と思って逆算してみたら、10億円を出すためには1,000億円クラスの売り上げがある企業じゃなきゃいかんということになった。日立や古河電工といったあたりだな。
そんな会社はそうたくさんあるわけじゃない。フジタだって500億円くらいだったから。
でも、ベルマーレはそこまでは必要ない。だから、この「1%クラブ」の発想をホームタウンで広めて、「経常利益の1%、1億円規模の会社は100万円でいいですから出してくれませんか」と言って回るのもいいかもしれない。
とにかく「金に困ってるので寄付してくれ」というのはいかん。それでは物乞いになってしまう。ベルマーレという存在の価値観を堂々と強調していくことが大事だと思うよ。
でも、そうは言っても現実にはなかなか難しいこともよくわかる。いま言ったような未来への投資という部分がある一方で、チームを応援している「ファン」にも観客としてたくさん来てもらわなきゃならんからね。お客さんを喜ばすためには勝つことが一番だけど、強いチームを作るためには相応のお金がかかるわけだし。「負けるにしても面白いゲームをやろう」というのは理屈では言えるけど、実際にはやっぱり面白くないからね。
かと言って、勝利のために守備7割の試合をやったら、やっぱり面白くない。Jリーグに上がった頃、ベルマーレが面白かったのは、「桜の花と散れ」みたいなサッカーをやっていたからだよ。いい時にはぱーっと咲くし、悪い時にもぱーっと散るみたいなね。やっぱりディフェンシブになると観客は面白くない。
ここは難しいでしょうな。観客数を増やすための特効薬はないから。それを使ったら3,000人、4,000人観客が増えるというような特効薬はない。私のときは「来シーズンは0勝30敗かもしれない」って言えたけど、2年続けてそれは言えんしね。2年続けてそれを言ったら、もう誰もついてきてくれんようになる。
でも、もうここまで動いてきてるからね。ベルマーレのサポーターたちの3割、4割は、3回に1回なら無理を聞いてあげるよ、という人たちだと思う。そういう人たちをもう少し増やしていくようなことも考えないといけないかもしれんな。
かと言って、あまり悲壮感のある顔はできないし。そんな顔してお客さんに「助けて」と言ったら、相手は逃げるだろうから。ほんと難しいねぇ。
やっぱり時間をかけるしかないだろうなぁ。そこで大事なのはクラブの姿勢だよ。「湘南ベルマーレ」というのは地元のクラブで、地元のために、地元の人がやっているんだという姿勢ね。Jリーグのクラブはたくさんあるけれど、でもホームタウンの人たちにとってベルマーレこそが大事なクラブなんだと思ってもらえるようになること。そのあたりが基本になるんだと思うよ、私は。
※上記は2004年に発行の「湘南ベルマーレクラブ10年史」に掲載された重松良典さんのインタビューです。(TEXT:川端康生)
◆
この10年史の取材をお願いすると、広島から東京まで足を運んでくださった。お昼に東京駅近くの料理屋の個室を予約してお話を伺う。先に食事をと注文をしようとすると、「ここは初めての店かい?そう、下から2番目じゃ。初めての店は。そんで旨かったらまた使いなさい」
独特の笑顔を振りまき背中を椅子に預けた。3時間近く現在、過去、未来のベルマーレとサッカー界のお話を聞かせていただいた。店に客は誰も残っていなかった。
一年後、小長谷さんの退任により、急遽、社長になることになった私は広島に向かう。重松さんへの挨拶だった。
同時にサッカーどころ広島にはモルテンの民秋さんなど、長くお世話になっている方が多い。サッカー界に顔の広い水谷の調整で、モルテンの担当だった飯田とともに新幹線に乗った。
しかも水谷はJFA時代に専務理事だった重松さんの下で働いていた。偶然にも旧知の仲でもあった。
今度は広島駅近くのホテルで待ち合わせをした。中二階のラウンジで待っていると足取り確かに階段を上がり私たちを確認する。そして嬉しそうに右手を挙げた。
「ほー、あんたも一緒か」子どもに再会するような笑みで飯田に話しかける。
席に腰を落ち着ける間もなく「どうじゃベルマーレは?」「まだお金はあるか?」
マシンガンのように様々な質問をぶつけてくる。できるだけ正確に真っすぐなパスを返す。現状の報告をほぼ返すと「そうよの~、お金も少なくなって社長か」「急にベルマーレに呼ばれたり、あんたも運がないの~」と我々の知ってるいつもの笑顔で共に大笑いした。
「でもやっていることはいいことじゃ」こんどは真顔で返してきた。
何年経っても、僕には大変お世話になった社長ですと、遠藤直敏は毎年一度は広島を訪ねていた。
彼から我々の総合型スポーツクラブの活動など細かく聞いていたようだ。
「わしゃ、うまくいくと思うぞ。辛抱強くやることじゃ」
水谷を指さして「こんな鉄砲玉みたいなやつも一緒じゃ、真っすぐにコツコツやりなさい」「狭い世界じゃの~」
大きな笑い声と共にまたまた重松節に引き込まれていった。
2019年開幕に向け、カウントダウンが始まっている頃、携帯が鳴った。
「重さん、お亡くなりになったそうです」水谷からだった。
高齢でもありすでに施設に入っていて遠藤も連絡がつかないと聞いていたので残念ながらその日が来たんだなと受け止めた。
日程を確認して新幹線を予約しようと伝えると「それが昨年らしいんです。身内以外は誰にも伝えるなということだったらしいです」「昨年のいつ頃?」「おそらく、ルヴァン決勝の数週間後」
思わず黙り込んだ。意識はあったのだろうか。あの若き戦士達の戴冠を見てくれたのだろうか。あの緑に染まった埼スタを認識できたのだろうか。
すぐにでもお墓参りにと思ったが、お墓も誰にも教えていないという。
重さんらしいと思いつつ、あの笑顔を何度も何度も思い浮かべた。
「いっちゃんじゃ~」そう喜んでくれたに違いない。
その後、水谷とクラブからの発信や追悼を相談した。JFAもJリーグにも情報はいってない。熟慮の上、何もしなかった。
なぜなら空の上から重さんが言っているから。
「いりゃーせん」
重さんのお墓は水谷がサッカー界のパイプをフル活用してもわからない。
しかし、6月14日アウェイの広島戦に向かいながらどうしても気になった。レンタカーでエディオンスタジアムに向かいながらふと思った。
そこで手を合わせる分には重さんも「ばかたれじゃ」とも言わないだろう。
小雨降る原爆慰霊碑の前に立ち手を合わせた。
いちがいな爺さまに、合掌。
◆
※EPISODE-Ⅹはこちら
※このコラムは2004年に発行された湘南ベルマーレクラブ10年史に「インサイドストーリー:フジタ撤退から湘南ベルマーレ蘇生までの真相(眞壁潔著)」として掲載されたものです。(EPISODEⅤ以降はすべて、もしくは一部新たに書き下ろしされています)
尚、5月8日・9日には2009年のJ1昇格、2018年のルヴァンカップ優勝時に公式サイトに掲載されたストーリーを改めて掲載いたします。