ボイス
2017.08.03
【ボイス:2017年8月3日】岡本拓也選手
腐っていたプロ1、2年目
新たな自分を発見した長崎での時間
新たな自分を発見した長崎での時間
岡本選手は、浦和レッズのアカデミー出身。2010年、高校3年になる年に2種登録され、第2節で早々にJ1リーグでデビューも果たし、シーズン終盤には定位置をつかんでいる。若い頃から将来を嘱望されている選手の一人だ。ところが、そのままトップ昇格も果たし、順調に歩みを進めていたと思われた矢先の2011年5月に、手術を伴う怪我を負ったあたりから雲行きが怪しくなる。
「プロ1、2年目はずっと怪我で。
高3の時に2種登録でトップチームにずっと帯同させてもらって、ある程度試合にも出て。自分のなかで、結構できるんだなって勝手に思っていた。その次の年、ちょっと慢心というかそういうのがあって、準備も怠っていたと思うし、そのなかで怪我を何回もして。ここからがスタートだっていうのがわかってなかったというか。ちょっともったいなかった、そういうプロ1、2年目だったかなと思います」
浦和は2012年にミハイロ・ペトロヴィッチ氏を監督に迎える。
「レッズの練習では、11対11のゲームをずっとやっていたんですけど、そのメンバーに入れないと横でボールを蹴ってるしかない。そういう選手は誰かが怪我などで人数が足りないときに入る感じ。あの頃の自分は完全に腐ってましたね、どうせゲームには入れないしと思って。横でずっとボールを蹴っていて、『このままじゃダメだな」と思った。恥ずかしかったです。今思えば、非常に時間がもったいなかったですね」
2013年8月にV・ファーレン長崎へ期限付きで初めての移籍を経験した。
「長崎で試合に出て結果を残さないと、もう本当にサッカー人生が終わるなと思っていました。レンタルで行ったけど、帰ってこられる保証はまったくなかったし。とにかく試合に出て活躍しなきゃという思いでした」
長崎は、2012年にJFLで優勝し、このシーズンから現在も指揮を執る高木琢也監督を迎えてJ2に参戦。岡本選手は、初めてJ2を戦う初々しいチームの戦力となった。ところがそこは、サッカー選手にとって最高の環境が整えられた浦和とはかけ離れた世界だった。
「当時はグラウンドもなくて、クラブハウスもなくて。自分たちで移動しながら練習するっていう感じ。でも、辛いというより厳しい環境を求めて移籍したので、その点はすごく良かったですね」
何よりも良かったのは出場機会を得たこと。高木監督は岡本選手を信頼し、移籍したシーズンのほとんどの試合で出場がかなった。
「行ってすぐ次の試合で使ってくれたり、フリーキックとかコーナーキックとか、セットプレーも蹴らせてもらったり、いろんなことを経験させてもらいました。それにめちゃめちゃ走りました。自分、走れないと思っていたんですけど、そこは自信になりましたね。サッカー選手として再生させてくれた、じゃないですけど、新しい自分を発見させてくれました」
覚悟を持って向かった新天地で、これまでとは全く違う環境に身を置くことも良い経験と前向きに捉えた。それができた理由の一つが仲間の存在だったのかもしれない。
「チームメイトにも恵まれたと思います。真面目な選手ばっかりで。いろんなことが新鮮で、大変でしたけど楽しかった」
長崎で1年半を過ごして、2015年に満を持して浦和へ復帰した。
「前の自分とは違う、成長した姿を見せたいと思ってレッズに戻りました。
レッズでは、長崎に行く前よりは、最初から練習に入れないということもないし、自分もできてるなという手応えはあったんですけど、信頼を掴むまでには全然至ってなくて。低い序列からスタートという感じでした。
でもまあ、一度、腐っちゃった経験があるんで、今回は絶対にどんな状況になっても腐らず、練習からどんどんアピールしていこうと思った。徐々に評価は上がっていったっていう感覚はあるんですけど、試合で結果を残すことができなくて。ちょっと残念だったなとは思います」
再び、浦和のレギュラー争いの壁の高さを感じる日々ではあったが、二度と同じ過ちを繰り返すことはない。腐らず前向きに取り組んだ日々が新たな扉を開いた。
「プロ1、2年目はずっと怪我で。
高3の時に2種登録でトップチームにずっと帯同させてもらって、ある程度試合にも出て。自分のなかで、結構できるんだなって勝手に思っていた。その次の年、ちょっと慢心というかそういうのがあって、準備も怠っていたと思うし、そのなかで怪我を何回もして。ここからがスタートだっていうのがわかってなかったというか。ちょっともったいなかった、そういうプロ1、2年目だったかなと思います」
浦和は2012年にミハイロ・ペトロヴィッチ氏を監督に迎える。
「レッズの練習では、11対11のゲームをずっとやっていたんですけど、そのメンバーに入れないと横でボールを蹴ってるしかない。そういう選手は誰かが怪我などで人数が足りないときに入る感じ。あの頃の自分は完全に腐ってましたね、どうせゲームには入れないしと思って。横でずっとボールを蹴っていて、『このままじゃダメだな」と思った。恥ずかしかったです。今思えば、非常に時間がもったいなかったですね」
2013年8月にV・ファーレン長崎へ期限付きで初めての移籍を経験した。
「長崎で試合に出て結果を残さないと、もう本当にサッカー人生が終わるなと思っていました。レンタルで行ったけど、帰ってこられる保証はまったくなかったし。とにかく試合に出て活躍しなきゃという思いでした」
長崎は、2012年にJFLで優勝し、このシーズンから現在も指揮を執る高木琢也監督を迎えてJ2に参戦。岡本選手は、初めてJ2を戦う初々しいチームの戦力となった。ところがそこは、サッカー選手にとって最高の環境が整えられた浦和とはかけ離れた世界だった。
「当時はグラウンドもなくて、クラブハウスもなくて。自分たちで移動しながら練習するっていう感じ。でも、辛いというより厳しい環境を求めて移籍したので、その点はすごく良かったですね」
何よりも良かったのは出場機会を得たこと。高木監督は岡本選手を信頼し、移籍したシーズンのほとんどの試合で出場がかなった。
「行ってすぐ次の試合で使ってくれたり、フリーキックとかコーナーキックとか、セットプレーも蹴らせてもらったり、いろんなことを経験させてもらいました。それにめちゃめちゃ走りました。自分、走れないと思っていたんですけど、そこは自信になりましたね。サッカー選手として再生させてくれた、じゃないですけど、新しい自分を発見させてくれました」
覚悟を持って向かった新天地で、これまでとは全く違う環境に身を置くことも良い経験と前向きに捉えた。それができた理由の一つが仲間の存在だったのかもしれない。
「チームメイトにも恵まれたと思います。真面目な選手ばっかりで。いろんなことが新鮮で、大変でしたけど楽しかった」
長崎で1年半を過ごして、2015年に満を持して浦和へ復帰した。
「前の自分とは違う、成長した姿を見せたいと思ってレッズに戻りました。
レッズでは、長崎に行く前よりは、最初から練習に入れないということもないし、自分もできてるなという手応えはあったんですけど、信頼を掴むまでには全然至ってなくて。低い序列からスタートという感じでした。
でもまあ、一度、腐っちゃった経験があるんで、今回は絶対にどんな状況になっても腐らず、練習からどんどんアピールしていこうと思った。徐々に評価は上がっていったっていう感覚はあるんですけど、試合で結果を残すことができなくて。ちょっと残念だったなとは思います」
再び、浦和のレギュラー争いの壁の高さを感じる日々ではあったが、二度と同じ過ちを繰り返すことはない。腐らず前向きに取り組んだ日々が新たな扉を開いた。