ボイス
【ボイス:12月31日】臼井幸平選手の声
2009年12月5日、約9ヶ月間に渡って51節を戦った長い長いJ2リーグが最終節を迎えた。ベルマーレにとってこの試合は、2009年シーズンの締めくくりであると同時に、J1昇格を賭けた最後の大一番でもあった。対戦カードは、VS水戸ホーリーホック。アウェイのK’sデンキスタジアムが決戦の舞台となった。
振り返れば、ベルマーレがJ2リーグで過ごした年月は、今年で10シーズン目を数える。そんな節目の年を迎えた今のチームには、クラブの激動の歴史を知る選手がふたりいる。一人は、J2時代のすべてをクラブと共に歩んできた坂本紘司選手。そしてもう一人が、降格した1999年のJ1リーグ戦を戦い抜いた臼井幸平選手だ。ベルマーレに関わるすべての人が願い続けた昇格を賭けた大一番のピッチには、このふたりが立っていた。
今回は、臼井選手に昇格のよろこびとともに、今だから話すこともできる、少しせつない“あの頃”も振り返ってもらった。
得点すると負ける、そのジンクスを乗り越えて、
昇格を引き寄せた甲府戦がベストゲーム。
「毎日、甲府戦や水戸戦の試合の録画を見たり、浸って考えたり、その試合を振り返ったり。普段は試合の録画なんてほとんどみないんですけど」
昇格を決めた試合から1週間が経ち、今、どんな心境なのかを尋ねると、ベルマーレを応援し続けた誰もと同じような行動をしていることを臼井選手は語ってくれた。
「普段は自分が良いプレーをした時だけ観るようにしていて、試合の録画は本当に見ないんです。だけど甲府戦は、自分にとってのベストゲームだから好きっていうのもあって、観ながらボケーッとしている日が多いですね(笑)。
やっとひとつの目標をクリアできた。J2に降格して以来、ずっとJ1を目標にやってきて、30歳にまでなって。
自分ではもっと早くJ1でやりたかったから、横浜FCから山形に行ったのに、そうしたら横浜FCが昇格して、山形からうちにきたら山形が上がって。『J1には縁がないのかな、自分は実力も運もJ1でやるレベルまでいけてないのかな』と、本当に苦しい日が多かったから、そういうすべての思いが報われた。言葉で表すのは本当に難しいんですけど」
喜びを語れば、まとわりつくように目標を追い続けた日々もよみがえってくる。
今シーズンは、監督が交代したこともあって、結果的に不動の右サイドバックとして警告の累積による出場停止以外の50試合に出場し続けた臼井選手ですら、当初は約束されたポジションはなかった。
「監督は、ディフェンス面で最後の部分の1対1を重要だと言っていて、それをこなさないと今シーズンは試合に出られないという雰囲気でした。まずレギュラー争いからシーズンが始まった。自分としては、『今年、また危ない目に合うんじゃないか』という意識すらあったほど、ヤバい状況で。
でも、『このままじゃ、また同じことの繰り返しになってしまう』と、そこから責任感ということを強く意識して、まずレギュラーを掴むことを目標にした。昔、このチームを解雇になったことが活かせたというか。
今年は、本当に監督に育てられたと思う。今まで移籍をしても試合は結構出場し続けてきたんですよ。そういう部分で驕りもあったのかなって気づかされた。監督に競争心を植え付けられたことによって、もう1段階ステップアップできたんじゃないかと自分で思う。来年また1つステップアップできたら、もっといいかな」
所属するチームがあってこそのプロ選手。2001年シーズンを所属チームがないまま過ごした臼井選手は、その経験を糧に成長していた。なぜ、このチームに戻ってきたのか、何を成し遂げたいのか、まず自分に問い直したのだ。答えはもちろんJ1昇格。そのために必要なものとして、責任感という思いがでてきた。
そうしてレギュラーの座を掴んだが、第一関門を突破しても、リーグ戦は長く、乗り越えなければならない課題は、次々とやってきた。
「51試合という長丁場については、そんなに長くは感じなかった。ずっと昇格ラインにいて、緊張感を持ち続けていたし、身体は慣れちゃうから大丈夫だったし。それよりも、長丁場の中で次の試合に“挑む”っていう気持ち、次の試合への切り替えが大事だったかなと思う。
そういう気持ちを意識したのは、やっぱり4連敗した時。勝っていた時、首位でいた時は、難しくなかったことが、『あれ?』ってなった。
そうはいってもずっとJ2を見ていて、1位のチームというのは結構途中でコケることが多かったんで、自分たちもあるかなと予想はしていたんですけど。だけど、実際にその局面に立ったら、どう立て直すか、苦労しました」
臼井選手が今年、テーマに掲げた責任感。それは、チームメイトに対しては、試合や練習で『こうしたほうがいい』と気づいたことを伝えるという行動に繋がり、自分自身に対しては、足りないものを問い、得点やアシストなど数字で結果を出すことを求めた。
ところが、シーズン当初はコンスタントに重ねていた得点やアシストも、4連敗後は、ともに鳴りを潜めてしまう。
「得点とかアシストとか結果にこだわっていたのに、4連敗して切り替えが難しくなってしまった。深く考えすぎたわけではないと思うけど、得点もアシストもできないまま期間が開いてしまって。
甲府戦がベストゲームというのは、自分が得点して勝った試合だから。なかなか点が取れないこともあったうえに、自分が得点すると負けるというジンクスもあったし、実際に決めて勝ってなかった。そういうこともすべて打開しないとJ1は見えてこないと思っていたから、だから甲府戦で得点して、最後に紘司さん(坂本)が決めてくれて勝てたのは、本当に感謝してます。
もうひとつ、自分がキャプテンをやると勝てないっていうジンクスもあったけど、キャプテンをやった横浜FC戦(第39節)でも紘司さんが決めてくれたんですよね。個人としても、チームとしても、めちゃめちゃ救われましたね。ここぞっていうときに決めてくれて」
ひとつ乗り越えれば、ひとつ課題が出てくる、その繰り返しだった今シーズン。臼井選手は、どの課題にも正面から向き合って取り組み、責任を持って最後まで粘り、それでも足りなければチームメイトの力も借りて乗り越えた。でもそれは、選手もスタッフも、ベルマーレに関わるすべての人全員が一丸となって戦った、今年1年のチーム自体がそうだった。
「そうやってピンチを乗り越えたことによって昇格までいけたことが、すごいと思う。ピンチがチャンスじゃないけど、やっぱりそういうものってあるなと思いました」
乗り越えるべき課題をしっかり見据えれば、ピンチはチャレンジのためのチャンスに変わる。今、手にしている喜びは、求める結果にふさわしい努力をしてきた証だ。
人生最大のプレッシャーは、
責任感と、仲間を信じる心ではねのけた。
昇格を果たした今だから語れること。そのひとつに、プレッシャーの存在がある。
第48節でベガルタ仙台、セレッソ大阪の昇格が決まり、残った1枚の切符を甲府と争うことになった第49節から、選手たちの緊張感が増したように見えた。
「今考えると、ありましたね、プレッシャー。やっぱり甲府戦前とか、すっごい考えた。『負けたら終わりか…』とか。数字上は終わりじゃないけど、あの時期に負けたらやっぱり終わり。最低限勝ち点1はとらないと。それを考えている時は本当に怖さがあった。だから、いい年して、こんなチャンスはないぞ、と自分に言い聞かせたり。考え始めると、悪いほうに考えるか、すごくいいほうだけを考えるか、両極端の考えしか浮かばなくて。
みんな平常心って言ってたし、自分も言っていたけど、実際はかなりプレッシャーがあって、平常心を保つことは難しかったです」
昇格の扉をたたき続けた1年間、最後の一押しすら力ずくとはいかないところがサッカーだ。だからこそ、選手たちは皆、『平常心です』と、自らに言い聞かせた。
「でも、最後の水戸戦は、結局平常心でいられなくて、2点ビハインドになってようやく目が覚めたという状況だった。みんな固かった。それがプレッシャーだと思います。本当に難しいことだと思いました。2点取られてからは平常心になれた、冷静さを保てたと思う」
失点には誰もが驚いたが、目が覚めたあとの選手たちの行動は的確だった。特に、ディフェンスラインの選手たちが集まり、話をしている姿には『今日は勝ちに来たのだ』という、自分の信じるところへ向かう強さが感じられた。
「話したのは、戦術的なこと。ロングボールを入れられたり、前の選手の高さにやられたりと、危ない局面を迎えていたので、そのセカンドボールをいかに拾えるかっていう部分で、もっとラインを上げなきゃ拾えないって雄三(田村)が言うけど、最終ラインはどうしてもマークに着いて行かなきゃならない時もあるし、うちはオフサイドトラップをかけないからマークに着いて行く分、間延びもするので、そこは中盤が下がって来いとか、そういう具体的な話をした。で、最後には絶対いけるから信じて、絶対に前が点を取ってくれるから、まず3点目をやらないっていうところを確認した。
雄三は、そうやって試合中も結構先頭に立ってやってくれて、そういう面でも信頼できる選手。本当にみんなが信頼しあって、最後まで信じた。サポーターも信じてたと思うし、そういう思いが実ったゲームだったかな。
今シーズンは、全部そうですね。終了間際の89分に10点取れているのが証拠。サッカーは、仲間を信じてやらないといけない部分が必ずあるし、信頼しあったからこそ勝ち取ったJ1かもしれないですね。
それとノジ(野澤)が3点目を止めてくれたのも大きかった、あそこで3点目を取られていたら終わってたかもしれないゲームだったので、救ってくれた。大輔(村松)もビッグクリアがあったし。それぞれみんな責任感を持ってここは押さえるっていうところを押さえてくれたし、前は点を取って責任を果たしてくれた。今年は、責任感という部分でも、みんなだいぶステップアップしたんじゃないかと思います」
勝利を意識しだしたのは、ちょっと気の早い時間帯だった。
「2‐2で後半が始まって、3点目を取るまでは危ない場面もあったけど、3点目を取ってからは危ない場面はそんなになかったと思うんですよ。安定したなって。それが一番油断になっちゃうんでよくないことでもあるけど、安定感が出てきたんで、『いいぞいいぞ』って思った。で、ロスタイム4分の表示が出てきたくらいに、『ヤバイ、このままいったらJ1にいける』って思いが、グワーッときた。ロスタイムでやられるケースもいっぱい見てるし、自分たちもロスタイムに点を取ってきてるから、『まだ終わってない!』ってかき消したり。でも、どうしようもなくJ1がちらついて。そこに長年の思いがよぎってきたら、うるっとしちゃって。昇格が決まった瞬間は、もうただ涙が出てくる感じだった。うれしくて泣いていることはわかったんだけど、あんなに自然に涙が出たのは、すごい感動ものの映画を観た以来かなと(笑)。
自然とボワーッと泣けてきた。みんなの顔を見たらうれしさがこみ上げてきたし、サポーターの顔を見たらまた泣けてきたし、みんながいろんな思いを持っていたのを知っていたので、誰かの顔を見ると泣けましたね」
サッカーで泣いたのは、2度目。
「去年、昇格のチャンスがまだあったときに山形と対戦して、自分、怪我をしたんですけど、その時に『こんな大事なチャンスで何をやってるんだ、何で怪我なんだ!』って、試合中、ピッチの外に出たときにちょっと泣けてきた。それは悔し涙だけど、それも珍しいことだったから、昇格のときは、泣けるのかな?泣いたほうが良いのかな?なんて思ったりもしたくらい。あんなに自然に涙が出るとは思ってなかったんで、自分でもびっくりしました」
ただただあふれてくるよろこびの涙をひとしきり楽しんだあと、今度は心の中の変化に気がついた。
「親とか、家族、子どもとか、『支えてもらったな』、とか。一番は親に、いろんな面で感謝が浮かんだ。中学校からベルマーレに通っていて、戸塚からだから遠いし、お金もかかったと思うし。1年浪人した時も親はサッカーのことをいろいろ言ってくれて、もう一度そういう気持ちにさせてもらった。迷惑をかけた分、本当に感謝の気持ちがすごい出てきた」
臼井選手は、2000年でベルマーレとの契約が満了した後、1年間所属チームがない時期を経験している。その翌年に、横浜FCに練習生として通い、そこからきっかけをつかみ、這い上がってきたのだ。その1年の浪人生活を支えてくれたのが両親だった。
「それとおばあちゃん。おばあちゃん、今シーズン開幕のときに亡くなっちゃって。開幕戦で自分がシュート打って、そのこぼれ球からアジ(アジエル)が2点目を決めた時くらいに息を引き取ったっていう話で。結構、おばあちゃん子だったんで、何でこんなときに亡くなっちゃうんだろうという思いがあった。でも自分にとって辛いことがあった年って、後で良いことがあるので今年は何かあるかなと思っていた部分もあった。
そこで開幕5連勝できて、今年はJ1に行けるんじゃないかって思えた。おばあちゃんが力を貸してくれたと思いますね」
プレッシャーから解き放たれた心の中に見つけた、支えてくれた人への感謝。臼井選手が語った感謝は、多分どの選手も持っていた気持ち。あらためて、たくさんの人の思いを重ねて勝ち取ったJ1昇格である。
ベルマーレに所属した全選手に、
愛を込めて。
昇格を争うライバルとの直接対決となった49節VS甲府戦、昇格を賭けた大一番だった最終節の水戸戦。派手な2つの試合に挟まれて、やや霞みがちなホーム最終戦ではあるが、降格を知る臼井選手にとってはたくさんの人の思いをさらに感じる一戦だった。
相手は、ザスパ草津。’ 99年当時、チームメイトとしてともに戦った本田征二選手(1999年に在籍)と、ユースの先輩でもある高田保則選手(1997年~2005年まで在籍)が揃ってスタメンで出場してきた。
「本田さんは…『なんでPK止めるんだ!』って(笑)。やっぱり勝負強いなって思いました。ホントに、ヤスくんも本田さんも、試合に出てきてくれたことがうれしかった。だからこの試合で昇格を決めたかった。甲府が先に試合をして勝っていたんで、例えこの試合を勝っても昇格はなかったんだけど、でもそういう気持ちだった。
本田さんは当たっていたし、ヤスくんも前線で結構活躍して、ベルマーレに対して燃えてるっていう思いがすごく伝わってきた。
逆に言えば、プロだっていうのはそういうところ。チームに所属している以上、そこでしっかり結果を残す。でもそうは言ってもベルマーレ愛が強いので、ヤスくんは特に。だから試合のあと、『絶対にJ1に行ってほしいから本当に頑張れ』って言ってくれたことをすごく覚えてる」
臼井選手が背負っていたのは、ファンやサポーターの期待に加え、当時をともに戦った選手の、今はベルマーレで直接力を尽くすことができない選手たちの思い。
また、ジュニアユースからベルマーレで育った臼井選手は、強いベルマーレを知るひとりでもある。そんな記憶もあってか、昇格争い終盤に試合への意気込みのコメントを求められると、“ベルマーレの偉大な先輩たち”という言葉を口にするようになっていた。
「当時のメンバーでいったら、小島ノブさん(小島伸幸氏)、ナツさん(名塚善寛氏)、公文さん(公文裕明氏)、元さん(岩元洋成氏)、松川さん(松川友明氏)もそう。みんなすごかったし、代表経験がある選手もいる。ベルマーレで偉大だったそういう人たちが、チームがJ2にいることで忘れ去られちゃうのは、もったいないことだと思ったから。
J2に自分が落としたっていうか、自分がいた時に落ちちゃって、責任がないわけでもない。ただ当時は、若かったこともあって責任を感じてなかった。今思うと、そこは違うだろ!って自分に思う。だから、このチームに戻ってきた時になんとしてもね、再びJ1に戻すことができたら、ベルマーレの選手だってその時初めてサポーターに認めてもらえると思ったし、J1に上げれば、昔いた選手、代表選手とかが、何らかの形で関わったり、また戻ってきたいと思えるかもしれないし。その時に堂々とちゃんと戻しておきましたっていえる」
臼井選手がユースからトップチームに昇格したのは、フランスワールドカップが開催された1998年。ベルマーレには、当時の韓国代表だった洪明甫氏を含め、4人の代表選手が在籍していた。その華やかなチームに昇格したのだから、18歳の若者にとってはまさに夢の世界に足を踏み入れたような感覚だったろう。
公式戦デビューは、その年の9月。国立競技場で初舞台を踏んだ。順風満帆なしあわせの記憶。それもまた、昇格を争う気持ちの原動力となったのだ。
しかし、臼井選手のプロ人生スタートの年は、ベルマーレにとっては、新しい歴史が始まった年でもある。デビュー戦のよろこびもつかの間、冬が来る前に、親会社であったフジタの撤退が発表された。
「理解は全然できてなかったです。ただ、来年ヤバいよ、お金が一気になくなったよってことしか自分はわからなくて。いろんな選手が出て行っちゃうよってことだったけど、実際は何とかなるって本当に軽い気持ちでしか捉えてなかった。
でもその時もやっぱり親は、『これは大変なことになる。せっかくこのすごいメンバーの中で試合に出られていたのに、親会社が撤退してJ2に降格とかなったら、自分の人生でもいろんな面で痛い目に遭うだろう』って言われたんです。でも自分自身は、そんなことは考えてなくて。
’ 99年になってだんだん事の重大さに気づいて、本当に悔しいって感じたのはもう降格する間際で。
あの年は、サポーターも一生懸命盛り上げてくれるんだけど、選手は気持ちを表しきれなくて、勝てなくて。その時の経験は…何よりどんよりとした空気というか、それだけは本当に覚えているんですよ。選手も頑張っていた、でも頑張ってるけど、1点取られたら気持ちがダウンする、それと一緒にサポーターもダウンしていることが感じとれちゃう。マイナスマイナスに行く空気。それは忘れられない」
1999年のJ1リーグは、まだ2ステージ制で試合が組まれていた。全部で16チームが総当たりし、前後期合わせて30試合が行われた。
この年の最終的な戦績は、3勝1分、残りはすべて敗戦である。リーグ戦2試合を残してJ2降格が決まった。
「降格したときは、悔しいとかより、J2自体が新しいものだったから、どうなるんだろう?っていう感じだった。ただ、天皇杯やナビスコで当時J2だった大分と戦ったときも、『J2でしょ?』って舐めたところが自分にはあって。当時の自分は本当にテングだったから、完全に舐めきってました。でも結局引き分けちゃって、対戦して初めてJ2も意外とやるなというのがわかった。まあ、でも個人的な部分はまだまだだなというふうに、ひとランク下っていう感じでみていた。『J2でなんて、やりたくない』って思ってましたよ」
そうは言っても、デビューしたてで実績もない若手にオファーがあるわけもなく、そのままJ2で戦うことになった。
「やるしかなかったけど、甘かった。1年で昇格させようとか、考え自体も甘いけど、自分もまだまだ調子に乗っていてそんなことを言っていた。
実際、思いはあっても、現実はそんなに甘くないし、自分はレギュラーも取れなくて、結局3試合くらいしか使ってもらえなくて解雇になった。
でも、J2に落ちた時というより、フジタが撤退した時にベルマーレとして積み上げてきたもののひとつが崩壊したんだと思う。クラブは、そこを立て直すのに10年かかった。自分自身も立て直すのに10年かかっちゃって。
10年かかったけど、自分自身、去年戻ってきて、紘司さんより短いかもしれないけど、このチームにかける思いは人一倍強いつもりでいるし、降格させた責任もすごく感じていたから、昇格を決めた試合のピッチに立てたことが自分自身誇らしく思う。サポーターにも、自分がこのチームに戻ってきて、やっとベルマーレの選手だって思ってもらえるようになったと感じてるので、戻ってきたことを自分自身納得できた。
中学から、ジュニアユースから通ってきていて、何かの形で貢献したかったから。それができたっていうのは、やっぱり縁があるんだと思うし、本当にうれしいことですよね」
崩壊して、抜け殻のようになってしまったクラブに“今”があるのは、選手やサポーターなど、立場は違っても支えようという思いを持った人がいたから。臼井選手は、その思いを持って、自分が育ったベルマーレ平塚と、2000年に生まれ変わった湘南ベルマーレを1本の線で結ぶ、そんな役割も果たしている。
10年待ったJ1の舞台に向けて、
心の準備は着々と。
今季の目標は、5ゴール5アシスト。結果は、1つ及ばず4ゴール4アシストで終了した。
「甲府戦で決めたから、あとは草津と水戸戦で1ゴール1アシスト決めたかった。それが達成できなかったのは、唯一反省すべき点です」
これに加えてもうひとつ、臼井選手が目標にしていたことがある。それはJ2でNo.1のサイドバックと評価されること。J2リーグは、公式のベストイレブンの選出はないが、スカパー!で放送されているアフターゲームショーの実況アナウンサーや解説者、リポーターによって選出されたJ2ベストイレブンに臼井選手も名を連ね、非公式ながら高い評価を得ることができた。
「それも親が教えてくれたんですけど、めっちゃうれしかった。昇格した年に俺と紘ちゃんが入ったっていうのがうれしい。報われたっていうか。だから5ゴール5アシストに関しては、来季に持ち越しで」
J2でNo.1でなければ、J1で通用しない、そんな思いがあっての目標だった。来季は、J1が舞台。10年待ったこの舞台を前に、他にも考えることは多い。
「J1では、より厳しい戦いが予想されるんで、そこをどう踏ん張れるか。あとは自分がどの程度通用するのかっていうことも踏まえてもっともっと上を目指せるように。30歳になって技術の向上っていうのはちょっと難しいので、もっともっと戦術理解とか、他の選手の特徴を把握して、コミュニケーションをとって。どれだけ自分が活きて、相手を活かせてやっていけるか。
目標はまず、点を取ること。
レベルアップしたいのは、判断のスピードをもう一段階アップしたい。J1のプレーを観ていると、判断が早いし、寄せも早いし、フィジカルも強いし。寄せられる前に、当たられる前に自分で判断くだして次のプレーができるように。判断のスピードを意識して。J1ではそれができないとダメだろうと思っているので、そこを意識して取り組んでいきたい」
毎日、『ボケーッとしている』といいながら、J1への心の準備は着々と進めていた。その準備の中には、ファンやサポーターに来季もともに戦ってほしい、そんな要望もある。
「J1では非常に厳しい戦いが続くだろうけど、自分たちはもっともっと頑張るので、サポーターもみんな友達を呼んで今の倍くらいに増やしてもらって応援してくれれば、絶対J1に残留できると思うし、優勝に絡むような活躍をしてみせます。これからも見守ってほしいです」
今思えば、99年は、数えるのに勇気が必要なほどの敗戦を重ねたにもかかわらず、それでも選手は投げ出すことなく戦い、サポーターには、気持ちは選手とともにピッチで戦う、そんな応援スタイルが定着していった最初の年であった気がする。
それは、今のベルマーレの一番の魅力でもあるもの。来年は、気持ちは選手とともにピッチにある、そんなベルマーレスタイルの応援をJ1の試合で見せつけて、臼井選手の言葉を現実のものにしていこう。
取材・文 小西なおみ
協力 森朝美、藤井聡行