湘南ベルマーレ20周年記念コラム「志緑天に通ず」

湘南ベルマーレ20周年記念コラム「志緑天に通ず」第3回

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EPISODE-Ⅲ ITALY
1999 Winter Promise

episode3-1

11月20日、浦和戦の敗北で、ベルマーレのJ2降格は事実上決定した。しかし、まだ試合は残されていた。残りの2試合、どの選手もピッチの上では全力で戦っていた。そのプレーからは、最後の瞬間までJ1のチームとして勝負にこだわりたいというプライドと、一緒に苦しいシーズンを戦っているサポーターに1つでも勝利というお返しをしたい、という選手たちの強い思いが感じられた。
最後の試合となった磐田戦を終えたとき、意外にも同時に降格するのはベルマーレの降格を決定づけた浦和レッズと知らされた。

私は、自分の仕事とベルマーレの仕事を本格的に掛け持ちしだし、予想以上の作業量に自らの判断を呪った。
しかし、大神の事務所で昼夜なく働くスタッフの熱意が伝染したかのように、やる気だけは日々増していった。

「あのー、眞壁さんちょっとご相談があるんですけど。ずっと考えてることがあったんですが…」
11月中旬に入ると、小長谷はベルマーレに週3回のペースで磐田から出勤し、平塚滞在中、彼は精力的に動き回った。私は彼に付き添い、そこで発生した諸問題を次々と解決し、また新たなる準備をするという役目を担った。

フジタから離れ、新生ベルマーレとしてチームが自立するための準備は、社員契約の件から、チケットの販売戦略や事務機器のリースの件など、業務は多岐にわたり、私は目まぐるしい日々を続けていた。
その時、飯田が私に話しかけてきたのだった。「ちょっと」と言うと、飯田は目で私に別室に同行することを促した。我々は社長室に向かった。

小長谷がいない日は、社長室は我々の格好の密談室になる。入って左側の棚には、1994年ニコスシリーズ準優勝など数々のトロフィーが飾られていた。その中の第74回天皇杯の優勝カップに目をやりながら、彼の話に耳を傾けた。
「あの、たとえばですね。一選手がチームのスポンサーになるってことは不謹慎でしょうか?」
「は?」
「一般的に考えれば、ふざけてるとか思われますかね?」
「え?」

話はよくわからなかったが、彼の顔は非常に真剣だ。詳しく説明してほしいと飯田に言うと、彼は丁寧に説明し始めた。彼の説明は、常に真面目で丁寧だ。起きたことを時間に沿って遡り丁寧に説明する。彼には申し訳ないが、早送りしたくなる時があるのも事実だった。ただこの日の、この説明だけは、以降私は何度も巻き戻して聞くことになる。

--9月に日本代表に招集された中田英寿が、突然ベルマーレの練習場である大神グラウンドに現れたこと。それに気づいたサポーターやチーム支援者が、ヒデが訪れたことをとても喜んだこと。あまりにみんなに喜ばれてうれしくなった飯田は、ヒデへのお礼のメールを送ったこと。するとヒデから何か手助けしたいという返信があったこと--。

そこで私は慌てて彼の説明を止めた。
「オイ、それ、いつの話だ」
「かれこれ1週間ほど前ですか」
「すぐ言わないお前のほうが不謹慎だよ」
恐る恐る始めた自分の話に、私が興味を持っていることを感じた彼の顔が、パッと明るくなっていった。私は慌てて飯田に言った。
「ヒデの事務所はどこだ?すぐアポを取ってくれ」

ベルマーレから巣立ち、いまや世界トップクラスのサッカー選手となっていたヒデから、助力の話が出た。ヒデは、イタリア移籍の際、ベルマーレが快く送り出してくれたことに対して、感謝の気持ちを持っているのだ。そして、ベルマーレが困っている現状を知り、自分にできることはないか、と考えてくれたのだ。ベルマーレにとって何より心強い“救いの手”だった。

11月25日。都営地下鉄・曙橋駅の地上出口からほど遠くないところに、株式会社サニーサイドアップの事務所はあった。
エレベーターで事務所がある階に降り立つと、私と飯田は受付から応接室に通された。
壁一面をガラスで仕切られた部屋は、白とイエローを基調とした明るい部屋だった。ガラス越しにヒデの代表ユニフォームがきっちりした額に収められ飾ってある。
そのガラス越しに次原社長が姿を現した。部屋に入るなり、歯切れのいい明るい声と表情で自己紹介をしながらテーブルに着いた。
「はじめまして、次原です。飯田さんから眞壁さんのことは伺っています」

非常に楽しいテンポの会話が始まった。あまりに前向きで明るいリズムに、心が押され気味になりながら私は本題に入った。
「飯田から報告を受けまして…」
「そうなのよ、ヒデは大変ベルマーレのことを心配してるというか、とにかく1年でJ1に戻ってもらいたいって」
「ありがとうございます。それで今日はどういった支援をしていただけるのか図々しくお伺いに来ました」
「DDIさんはどうなってますか?」
「えっ、胸ですか?ご継続のお願いをしているところです」

そう答えながら、支援とはユニフォームスポンサーのことか、とあまりの嬉しさに動揺した。DDIは1994年からスポンサーとしてベルマーレを支えてくれていた、チームにとっては大切な企業だった。ベルマーレのユニフォームの胸には、Jリーグ昇格の年からずっとDDIの文字が飾られていた。しかし、この時期になってもユニフォームの背中のスポンサーは決定していなかった。ユニフォームスポンサーはチームにとって少なくない収入源の一つだった。私は顔がにやけないよう、精一杯口元を引き締めながら、「背中は空いてます。お願いできるものなら背中で」
「うーん、ヒデは胸に関心があるんだけど…。でもそうね、DDIさんに胸をやっていただいたほうが、財政的にもベルマーレはいいわね。ヒデも予算がいくらでもあるというわけじゃないし…。今夜、イタリアと連絡して決めます。背中は空けておいてください。細かいところは、今後打合せをしながら決めていきましょう。それと二つだけ約束してください。ひとつは、必ずJ1へ1年で復帰すること。これが、今回のヒデの願いですから。だからこのお金はチームの強化費という位置付けで使ってください。あとのもうひとつは、発表日まで絶対にこのことを外に漏らさないでくださいね。約束は守ってください。こちらも必ず守りますから」

口元の筋肉を引き締め、何ごともなかったかのように丁寧に礼を言って、私は事務所を後にした。エレベーターを降りたところで、私と飯田は顔を見合わせ満面の笑みで握手した。

その後、クリスマスに河野宛にヒデからシャンパンが届き、年が明けた仕事始めの日にフロント全員で乾杯をした。小長谷と私を含め11人のメンバーだった。平塚時代の半分以下のスタッフ数である。しかしそこには新しい挑戦に対するやる気が満ちていた。

episode3-2

1999年の年末から、新聞各社はペルージャに在籍していたヒデのローマへの移籍を書きたてていた。サニーサイドアップの次原社長と約束した情報管理は万全で、ヒデがベルマーレのスポンサーにつくことを発表するXデーは、彼がローマに移籍し、ゲームに出場した後の2000年1月20日と決まった。

発表前日、ベルマーレにユニフォームを作ってくれていたカッパより、新ユニフォームが届いた。そのユニフォームの背中には「nakata.net」と白地にブルーでプリントされていた。それだけで、なんとなくクラブの空気が明るくなった気がした。

明日、おそらく世界で初めてであろう画期的な試みが発表され、ベルマーレとして久しぶりに前向きの話題としてテレビや紙面に登場することだろう。
1998年から1999年にかけて、ベルマーレ平塚のメディア露出量は多かった。しかし、残念ながらこのほとんどが「降格」と「消滅」という言葉で見出しを飾り付けていた。これではどんなにがんばれとエールを送られても、素直に聞き入れ続けるのは厳しいことだった。選手やスタッフ、そしてサポーターの心には、いつしか晴れ晴れとしない思いがボディブローのように浸透していた。存続が決定したと発表されても、クラブ代表は決まらず、会長が決まれど社長が決まらず、社長が決まっても監督が発表されず…、そんなアップアップな状況を経て、ようやく加藤の監督会見ができたのはすでに12月1日。その1週間後の8日、株式会社湘南ベルマーレが商法の手続きにのっとって設立され、そして新体制発表が12月22日である。まさに、時間との競争だった。その間、サポーターは自らも存続運動を重ね、一方的に発せられる情報を冷静に受け止め、来るべき開幕を辛抱強く待とうとしてくれていた。

そこへ「中田英寿ベルマーレをスポンサード」のニュースである。フジタ撤退が伝えられてからの1年間、ピッチの外で戦い続けてくれたサポーターや支援者の方々へのヒデからの大きなプレゼントだった。彼からもらったのは強化費だけではない。新たなシーズンに挑むための計り知れない勇気と希望であった。

新スポンサー会見は、スコットランドから平塚に移築された教会を借りて行われた。11番という背番号を与えられた期待のサイドバック和波智広がユニフォームを着用し、加藤久と写真に納まる。そこで、ヒデからのビデオメッセージが紹介された。

それはよく晴れたすがすがしい冬の日だった。そして晴れたのは天気だけでなく、私達スタッフや存続を心配して走り回ってくださった人々の気持ちであることも、また間違いなかった。

episode3-3

※EPISODE-Ⅳは5月2日に更新します

※このコラムは2004年に発行された湘南ベルマーレクラブ10年史に「インサイドストーリー:フジタ撤退から湘南ベルマーレ蘇生までの真相(眞壁潔著)」として掲載されたものです